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チョコミント/JND1241.Other.M

10/18/2014 12:44 PM ·Spoilers

赤城(あかぎ)は、かつて大日本帝国海軍(以下日本海軍)に所属した航空母艦である。同型艦は「天城」(未成)。太平洋戦争初期の重要な海戦において、機動部隊の旗艦として活躍したが、1942年6月、ミッドウェー海戦で沈没した。1930年代後半にドイツへ本艦の技術と設計図が譲渡され、交換として大和型戦艦建造用の工作機械が導入された。

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  • 艦名は赤城山にちなんで命名された。日本海軍の軍艦としては、摩耶型砲艦「赤城」に続いて二隻目。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられた理由は、後述の艦種変更に起因する。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。

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  • 日本海軍が計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」という規模の天城型巡洋戦艦2番艦として呉海軍工廠で建造され、1920年(大正9年)12月6日に起工した。完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった。それでも巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合が続出している。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった。1925年4月22日、航空母艦「赤城」として進水した。

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  • なお、本艦の同型艦である「天城」も同様に航空母艦に改造される予定であったが、関東大震災により竜骨を破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦「加賀」が航空母艦に改造された。天城型3番艦・4番艦は「愛宕」「高雄」と命名されていたが、この2隻は廃棄された。のちに艦名のみ高雄型重巡洋艦「愛宕」、「高雄」に使われている。

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  • 建造当初の「赤城」の飛行甲板は、イギリス海軍空母「フューリアス」の第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(本艦は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中は、どの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった。

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  • また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から現在の空母の中でも後にも先にも「赤城」だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った「加賀」で改装前に使用されていたものを移設したものである。

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  • 三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を10門装備する。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である。当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り(基準排水量で約1万トン減)、喫水が浅くなった。

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  • 機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛されている。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめな数値で公表され、搭載機数については秘密であった[14]。また三段空母時代の艦影は広く知られていたが、飛行甲板一枚に統一された近代化改装以降の姿は有名ではなく、1940年(昭和15年)に発刊された書籍でも「加賀」が改装後の写真を公表している一方、「赤城」は三段甲板時代の写真が使われていた。セイロン沖海戦の前に本艦に乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代の「赤城」と近代化改装後の「赤城」の艦影が違うことに驚いている。

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  • 航空機の発達にともなって飛行甲板の延長が必要となり、先に大改装を行っていた「加賀」を参考に1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長するなどの近代化改装が佐世保海軍工廠で施された。艦型は一新され、排水量も41,300t(公試状態)となった。この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて常用の搭載機も66機に増えた。飛行甲板は中央部が水平で、艦首方向へ0.5度、艦尾方向へ1.5度の傾斜が付けられていた。 ただし「赤城」の改装は予算上の制約から「加賀」に比べると、丁寧ではなかったり略式なものにとどまり、用兵側からは不満の残る仕上がりとなった。 例えば飛行甲板では、木製の板の隙間を埋める防水充填剤が板と板の間からはみ出て、それが甲板上に黒く硬くなって残っているなど、他の空母にはこのような雑な飛行甲板の仕上げは見られなかったという。

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  • 旧石炭庫を居住室に転用するなど、艦内は迷路同然であった。

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  • 第一煙突と第二煙突は一つにまとめられ、右舷中央部に設置された。また艦橋を艦中央部に設置することになり、右舷のままでは煙突と干渉するため反対側の左舷中央部に設置した。この艦橋配置は右舷の煙突と相まって気流を乱し、艦載機の着艦を難しくさせた他、排煙が艦橋に流れ込みやすく、見張りに支障をきたすこと、格納庫面積が狭くなるといった欠点があり、以後は「飛龍」に採用されただけである。航空機の着艦時には煙突内に海水を噴射して煙を吸収させるため、煙突から滝が落ちているように見える。右舷後部の居住区は煙突の排気が流れ込むため窓をあけられず、居住性の悪さから「人殺し長屋」の異名があった。

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  • 煙突を艦橋と一体化し、煤煙を上方へ逃がす欧米空母型の艦橋・煙突を採用した飛鷹型航空母艦「隼鷹」を見た赤城将兵が、これからは軍艦の居住性が良くなると解説した事もある。また「赤城」では結核と赤痢を発症する兵が多く、暑さと空気の悪さのために廊下でハンモックを吊り睡眠する兵や、飛行機格納庫に寝床を作る兵が多かった。食事は上等であったという。

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  • 武装面では、「加賀」と違って、旧式の十年式45口径12cm高角砲を、新式の八九式40口径12.7cm高角砲に換装・増強できなかった。設置位置も低い位置のままだったので、依然として反対舷方向は撃てなかった。96式25mm機銃の数は中型空母「蒼龍」と同じで「飛龍」よりも少なく、4万トン級という船体の大きさの割に、真珠湾攻撃に参加した空母6隻の中で対空火力は最も貧弱だった。三段甲板時代、中段甲板に設置されていた砲塔式の20cm砲は撤去されたが、艦尾舷側に装備した計6門の20cm砲は近代化改装後も装備していた。若手士官は「発射すると飛行甲板がめくれあがる無用の長物」と揶揄している。

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  • ミッドウェー海戦で「赤城」は20cm砲最低54発を発射しているが、飛行甲板への影響については不明である。飛行甲板に手すりはなかったが、一段低い高角砲と機銃甲板の間にポケットと呼ばれる整備兵退避場所がある。さらにネットが張ってあり、落下事故を防止していた。

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  • 三段の格納庫も船体の大きさの割には狭く、大蔵省の記録では、戦闘機27、攻撃機53、計80、補用機40、総計120(加賀は、戦闘機24、攻撃機45、計69、補用機31、総計100)となっているが、実際の搭載機数は「加賀」、「翔鶴」、「瑞鶴」より少なかった。太平洋戦争開戦時の常用搭載機数は艦上戦闘機18機、艦上爆撃機18機、艦上攻撃機27機。加賀、翔鶴、瑞鶴はいずれも艦戦18、艦爆27、艦攻27である。航空機はエレベーターで上下するが、乗組員は左舷のタラップで飛行甲板へ上がった。

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  • 各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、速力は32.1ノットから30.2ノットに低下した。 航続距離もあまり延長されなかったため、遠距離外洋航行が問題になる真珠湾攻撃作戦の計画段階では「蒼龍」、「飛龍」とともに作戦から外されることが検討されたこともあった。

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  • 1928年(昭和3年)6月、東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣等が「赤城」を訪れ、航空訓練を視察した。1929年(昭和4年)になると山本五十六大佐(のち連合艦隊司令長官)が赤城艦長に着任しており、後年には山本元帥の乗艦としても国民に紹介されている。他艦よりも汚れ、艦内清掃も行き届いていない第一航空戦隊旗艦「赤城」を見て同戦隊司令官高橋三吉少将が叱責したところ、松永寿雄赤城副長は「観艦式ならともかく、猛訓練を優先すれば、清掃や化粧(艦外観の塗装)が疎かになるのは当然」と反論。山本艦長も「いざ実戦となったら、軍艦のお化粧よりも戦いが先だ。軍艦は散髪屋ではないし、ペンキを塗るのがその本職でもない」と副長の判断を是認した。

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  • 「赤城」にとって、太平洋戦争(大東亜戦争)の真珠湾攻撃が本格的な初陣となり、「加賀」とともに第一航空戦隊を編成していた。 1941年11月9日から14日にかけて、重油の入ったドラム缶900本を搭載し、内火艇などもすべて陸揚げした。

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